陳聯松のこと
2022/09/01
今回は、《茗圃》にとっての大恩人、陳聯松のことを紹介しておきたい。
《茗圃》が開店して半年が経過した2010年の夏、大黒柱の呉チーフ(呉 錦洪)が病に倒れた。腰から下が痺れて立っていられない、というのだ。単なる疲労とかではない、何か重大な問題が生じていることは明らかだった。その2~3か月前から、支配人の金 徳域が、気になることを言っていた。呉チーフは味覚を失っているのではないか、と。いつ頃からなのか、何が原因なのかは分からない。本人がそう言っているわけではない。認めたくない事実であった。金の思い過ごしであって欲しいと願った。しかし、不安は現実のものとなった。
呉チーフは『日本福臨門』時代に喉頭癌にかかり、香港でその手術をうけた。その後、完治したとの報告を受けて『日本福臨門』に復職した。しかし、復職後の職場は、この稀代の名厨師に冷たかった。新しく開店する予定の『北京福臨門』への配置転換を通告されたという。いつオープンするかも分からない店への異動の決定を聞いて、呉は言葉を失った。25年も貢献してきたこの場所に、もう自分は必要ないというのか?
私は、退職を決意した呉は香港へ帰るものとと思っていた。香港に彼を求める職場はいくらもあることは明らかだった。ところが、呉は私に、いっしょに仕事をしよう、と言ってきた。地元の名古屋で「飲茶」の専門店をやろうと考えていた私にとって、それは予想だにしない提案だった。名古屋と東京は違う。《茗圃》は『福臨門』のようなハイエンドのお客様を対象とする店ではない。もっと軽装備の、カジュアルな店だ。平均の客単価は半分、いや、3分の1かも知れない。私は、率直に呉にそのことを伝えた。しかし、呉は「高いものが旨いものというわけではない。設定した価格の範囲内で最高の料理を作るのがプロの料理人の仕事だ」と言って、私を励ましてくれた。こうして、広東料理の最高峰ともいうべき名人とともに仕事をすることが決まった。
開店から半年間、《茗圃》の厨房では、天下の名人が毎日まいにち鍋を振るという、夢のような日々が続いた。楽しかった。お客様の反応も並大抵ではなかった。来店されたお客様の三人に一人は、その場で次の予約を入れていった。食事の最中に、携帯で知り合いに電話かけて《茗圃》の宣伝をはじめた。こうしたお客様の口コミで、半年もたたないうちに、《茗圃》の名は、名古屋の食通を名乗る人々の知るところとなった。
手ごたえは十分だった。これから、という時だった。病院を経営している友人が、呉チーフの精密検査を一日ですべてやってくれた。結果は癌の転移だった。もはや手術は出来ない状態だった。友人はひとこと「誤診であって欲しい。」といった。呉チーフや金支配人を待たせている間、二人で涙した。呉チーフ本人にも、金支配人にも、真実を告げるべきと考え、告知した。本人と相談して、抗がん剤の投与とともに食事療法も行った。高価な漢方薬を探し出して試してもみた。呉チーフのために出来ることがあるなら、なんだってやる覚悟だった。
支配人の金は「呉チーフに何があっても、店だけは継続する。それだけは、お願いします。」と私を叱咤激励してくれた。しかし、現実の問題として、呉チーフの抜けた穴を埋めることは、一筋縄ではいかなかった。金は、自らの持てる人脈を総動員して、香港から助っ人を連れてきた。しかし、あくまで代役として来日したチーフが、長期間にわたって日本に滞在することはなかった。すぐさま次の代役を手配しなければならなかった。彼もまた、しばらくすると去っていった。半年の間に、料理長が三人も代わる代わる鍋を振った。しかし、誰も《茗圃》の正規の料理長にはなれなかった。呉チーフの正統的な広東料理を謳い文句にしたこの店の品質を維持することは、簡単ではなかった。そうした窮状を救ってくれたのが、陳聯松だった。
陳は、呉チーフの幼なじみ、幼少の頃から兄弟のように育ち、『福臨門』にも同期入社した。呉チーフが『福臨門』一筋でやってきたのに対し、陳は、香港でもさまざまなレストランで経験を積み、1995年に来日してからも、いくつもの中華レストラン(1995年『小小香港』、1996年『金臨門』、1999年『金記美食』、2008年『コントンポラン』)の料理長を歴任している。2010年、陳は大阪で阪急グループが経営する中華料理店『コントンポラン』の料理長を務めていたが、呉からの要請を受けて料理長の職を辞して来名、《茗圃》の料理長に就任した。
陳は、呉チーフに代わって二年間に亘りチーフを務めた後に、会田にその座を譲った。呉の遺言に従ってのことである。幼なじみの盟友の弟子の兄貴分として彼を育て、その後にはそのポストを退き、みずからは大須の商店街で小さなラーメン屋を始めた。私も、《茗圃》のスタッフも、陳のラーメン店を訪れたことがある。何とも複雑な気持ちだった。陳ほどの腕と経歴の職人がラーメン屋の親爺とは。それでも、陳は、朗らかな笑顔で私達を迎え、再会を喜んでくれた。すくわれた気がした。私は、あらためて陳のファンになった。
2015年に《茗圃》の姉妹店である《RAPPORT》が開店し厨房のマンパワーが逼迫すると、陳は再び《茗圃》のメンバーに加わってくれることとなった。しかも、料理長としてではなく、会田のアシスタントとして。結果として、《茗圃》は、三度までも、陳に救われることとなった。「この人在りて、この店在り」。《茗圃》の表看板の呉と会田を、陰ながら支えてくれたこの人こそは、《茗圃》の大恩人と云わねばならない。
陳聯松は、今も元気で、栄の広東料理専門店『新香港』で、鍋を振っている。
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茗圃
〒460-0008
愛知県名古屋市中区栄2丁目12-22
電話番号 : 052-253-7418
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