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伝説の料理人「呉錦洪」のこと

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伝説の料理人「呉錦洪」のこと

伝説の料理人「呉錦洪」のこと

2022/08/25

 今回は、私達の師である「呉 錦洪」について述べたい。

 

 「呉 錦洪」は、香港が1997年に本土に返還されるに際し、東洋の別の拠点を築いておきたいという、香港『福臨門魚翅海鮮酒家』の社長「徐 維均」の意向により、間もなく開店を控えた『福臨門銀座店』の料理長として、1989年に来日した。当時『福臨門』は、灣仔の本店と九龍のキンバリー・ロード支店の二店を構え、広東料理の本場香港でも指折りの名店に名を連ねており、美食家達の多くが、『福臨門』こそが世界一の広東料理店と絶賛する孤高の存在として君臨していた。これらの店の運営に事欠かぬ常連客をもち、香港に来たなら必ず一度は訪れるという観光客もかかえ、大きな成功を収めていたこの著名なレストランは、「徐 維均」が一代で築いた店だった。呉錦洪は、料理人一筋の人生の大半を福臨門で過ごし、短かった人生の最期に、残された僅かな時間を、最後の愛弟子である会田 政博とともに《茗圃》に捧げたのだった。「呉 錦洪」を語るには、まず、『福臨門』について触れておかねばならない。

 

 創業者の「徐 福全」は香港屈指の出張料理人で、素材への吟味を重ね、伝統的な調理法によって「最高の素材だけが持ちうる味わいを最大限に引き出し高めていく」という哲学をもって仕事に打ち込んできた。その技量と見識は、著名な美食家達からも一目を置かれ、彼等の邸宅に招かれ、そこで最高級の料理を提供することが求められた。7番目の息子である「徐 維均」は14歳の時から父親のもとで修業し、食材の選び方、包丁の使い方、調理法のすべてを直伝で学10代にして乾燥鮑、魚の浮袋、フカヒレなどの食材を選別するという重要な仕事を任されるようになる。父である「徐 福全」が60歳で引退を宣言すると幹部級の料理人達は次々に独立し、弱冠20歳にして「徐 維均」が料理長として鍋を振ることになり、同時に経営も引き継いだのだった。この時点では『福臨門』の前身である『徐福記』という店があったが、重要な仕事は、何といっても、美食家達の求めに応じて行う出張料理の仕事だった。

 

 転機となったのは、作詞・作曲家であり俳優業もこなすマルチクリエーターとして香港では知らぬ者がいないジェームズ・ウォン(黄霑)の義理の弟である「屈書香」氏から晩餐会の料理の依頼を受けたときのことだった。その味の素晴らしさに感動した「屈書香」氏は、店の厨房までわざわざ料理人達を訪ね、謝礼の言葉を伝えにきたのである。思いがけない出来事に勇気づけられた「徐 維均」は、1972年に灣仔に『福臨門』の一号店を開店。店は順調に発展し、次いで、尖沙咀に支店をオープン、たちまちのうちに『福臨門』は香港内外に知れわたる有名店となった。

 

 父、「徐 福全」の時代は、高級料理を口にすることができる顧客はごくごく一握りの上客であって、一般の客向けに高級料理を出す店などは、ホテルのメイン・ダイニングくらいしか存在しなかった。高度経済成長という背景をチャンスと捉え、世界でもトップクラスの広東料理専門店を構えることを決意した大英断は、1989年の東京出店、1991年の大阪出店へと繋がり、さらには中国本土の各地にも支店を展開するに至っている。

 

 「呉 錦洪」は、その「徐 維均」が全幅の信頼をおく料理人として、『福臨門』初の海外進出店である東京・銀座のレストランの責任者を任せられた。『福臨門』の海外進出は、その歴史上で2回目の転機であり、或いは、1回目の転機以上にチャレンジングな決断だったのかもしれない。呉は、その後20年間に亘って、大阪、裏磐梯猫魔リゾートホテル、福岡、東京丸ビル、名古屋といった主要都市への支店の出店に際し、その立ち上げを成功させ、『日本福臨門』の総料理長という大役を担った。広東料理界の頂点を極めるレストランの最高責任者という、文字通り日本一の栄誉と実績を誇る名厨師である。世界広しと云えども、これほどの重責を委ねられた人物は、「徐 維均」を除いては、ほかに例をみないのではないか。

 

 先に記した通り、「呉 錦洪」は10代で『福臨門』に入社して以来、2009年に《茗圃》に移籍するまでの料理人としての人生のほとんどを『福臨門』で過ごしてきた。そして、彼の最期の仕事、すなわち、彼が長年に亘って体得してきた技と智慧のすべてを、彼の認める後継者に伝授するという、「師」としての務めを果たすために、それが実現できる場所を求めて、《茗圃》にやってきた。その理由は、彼の、その最後の務めを成し遂げるには、『福臨門』ではなく、《茗圃》である必要があったのだ。師が弟子を連れて古巣を後にするということは、そういうことだった。そして「呉 錦洪」は、その目的を達して還っていった。

 

 私は、この伝説の料理人とともに仕事をする縁を得た。まったく在り得ない縁だったと、そして、この上なく名誉なことだったと思っている。すぐれていたのは技量ばかりではなかった。人格も、品格も、ずば抜けていた。この人は、およそ「驕慢」、「弊」、「懈怠」とは無縁の人だった。「謙虚」で、「素直」で、「勤勉」だった。なるほど、これならば、どの世界でも一流になれる人だと、つくづく感銘を受けたものだった。この逸材の命を蝕んだ病とも忍耐強く対峙し、私達周囲の者達に対しても、気遣いを忘れたことはなかった。死の床につきながらも、良い機会だからと、ベッドの上で日本語の読み書きをさらっていた。こうした人を「師」と仰ぐことのできる者は幸運だ、と思った。

 

 「会田 政博」は、「呉 錦洪」本人が認めた唯一の後継者である。呉が《茗圃》に移籍して後に不治の病に倒れた時に「何としても復帰する。まだやり残したことがある。しかし、もしそれが叶わなかったときには、私の代わりは会田だ。他にはいない。」と語るのを、同僚の「陳 聯松」や「金 徳域」、「会田 政博」本人とともに、私は確かに聴いた。決して、忘れることはない。そこにいた4人はその言葉の重みに半ば圧倒されながらも、師の想いを成就させることを誓ったのだった。

 

 今は亡き天才厨師「呉 錦洪」。日本に於ける中華料理界で、少なくとも広東料理に関しては頂点に立っていたその人が、短い間ではあったものの、毎日《茗圃》の厨房で鍋を振っていたことは、およそ信じ難いことだが間違いのない事実であり、中華料理史におけるエポックであると思う。われわれの偉大なる師の意志に背くことなきよう、心して、日々研鑽に挑む決意と覚悟をもって、拙文を結ぶ。

 

 

 最大限の敬意と感謝をもって。                       令和4年9月吉日  中国茶・粤菜・點心 茗圃 董事長 森 太郎

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